さじ加減とは、調整することではなく違いを産むことではないか?

LIFE

こんにちは!なべっちです!今日は考え方のプロテインです!

昨日の昼は何食べましたか?
多分あまり覚えてないのではないでしょうか?
それはきっと、誰にも文句がいわれないような食べやすいものではないでしょうか?

さじ加減とは、調整することではなく違いを産むことではないか?

結論

さじ加減とは甘い、苦い、辛いなど調整するだとは思うが、調整するということは、誰にも何も思われない普通ではなく、これは辛いけど癖になるねといったものを目指すものではないか?

マイルドなものは誰でも食べれるが、誰の特別にもならない。

ドラマやアニメの作品もそうだ。
加減をして、みんなが喜ぶようなエンドにすると納まりはいいかもしれないけれど、
記憶には残らない。
それは大衆のために調整したのであれば手加減したと言えるのではないか?

センスは知識からはじまるでも書いたように、
普通や大衆にうけるものがわかった上で、スパイスを加えることで、他とは違うものができる
そういうものを目指して良いのではないでしょうか?

空気を読むというのも、読んだ後どうするかが大事

「空気を読む」というのも同様。
「空気を読む」とは周りの流れとか雰囲気に合わせるだけは意味がなく、
読んだ上でじゃあどうするかが大事ですし、価値がある。

雨が降るとわかっていたら、傘を持ってったり、洗濯物を取り込んでおいたりするのと同じ。
空気を読んだら自分のペースに持っていったり、コントロールができるはず。

それができないのであれば、空気を読んでいるのではなく、
ただ流れに合わせて何もしていないだけなのだと思う。

優れるな!異なれ!

中田敦彦

良いもの、悪いもの。その全ては違うだけであり、誰かに取っては良いものだったりする。
恐れず、誰にも良いものを目指すのではなく、自分のありたい姿を目指していきましょう!

売れているものが良いものなら、世界一のラーメンはカップラーメンだよ。

甲本ヒロト

これ実はなんでも使えます

音楽の音作りであれば、耳馴染みの良いギターの音はバンドでは埋もれたりする

上手いだけならいくらでもいて変わりもいくらでもいる。

普通のものやただ優れているものはわかりやすい分、価値もなくなるので
本当に加減できたり、空気を読む技術があるのであれば異なりましょう!

コメント

タイトルとURLをコピーしました