おはようございます!なべっちです。
今日はゆるしの哲学としてハンナ・アーレントを取り上げたいと思います。
ハンナ・アーレントといえば「全体主義の批判」で有名です。
全体主義とは個人の利益より全体の利益を優先し、個人が全体のために従属しなければならないとする思想のことです。
特にナチスのような独裁について言及していました。
会社や組織でも全体のために本当はこうした方がいいのに。。。と思いながら従ってしまうこともあると思います。
ハンナ・アーレントはこの全体主義という「悪」を批判していました。
人間の条件
ハンナ・アーレントは行動を重視していましたが、その中でも人間の条件としてこの3つが重要であると考えました
仕事:何らかの目的を達成するために行われる行為
労働:生存のための消費財の調達や生産行為
活動:人間の自発性に基づく他者との関係性を築く行為
その中でも活動を重視しました。
活動とは
社会には多様な価値観を持つ人が存在し、単一の価値観で社会を統一しようとせず、現実感に基づいた関係性を作ること
今でこそ多様性についてかたられることは多くなりましたが、単一の価値観で統一しようとする全体主義を否定していました。
しかし活動においては多様な人間関係だからこそ、意図せず誰かを傷つけてしまうことがあります。
そして傷つけてしまったら無かったことにはできないし、元に戻すことはできません。
活動の弱点は予期できないこと、そして元に戻せない不可逆性について指摘しました。
ゆるす
では私たちは間違ってしまった行為から解放されず、いつまでもその失敗に縛られ続けなければいけないのでしょうか?
過去の「傷」に縛られると人間の自由を阻害してしまいます。
ではどうすればいいのかというと「ゆるし」ということです。
恨んだり復習することは更なる復習を招きます。
よくアニメでもこの連鎖を止めようとしますよね。
ゆるすことでその傷からお互いが自由になることができるといいます。
ゆるすことは難しいでしょう。
復習するのも人間らしさともいえますが、ゆるすということも理性を必要とする「人間だからできること」ではないでしょうか?
しかしそんなアンナ・ハーレントでもゆるせないことがあり、この事実にも人間ということを考えさせられます。
有名な「アイヒマン裁判」
アイヒマンはアウシュヴィッツでユダヤ人の大量殺戮を指揮し、強制収容所に移送する「係」をやっていました。
アイヒマンが戦後捕まりどんな悪人なのかと、思ったらただの普通の人で、本人もただ上の命令だった。職務として行っただけに過ぎなかったのです。
これは全体主義の問題ですね。
個人としては悪人でなくても組織の命令としてならばできてしまう。
しかしアーレントはゆるしはアイヒマンには与えられず、死刑は妥当だというコメントを残しています。
本人ではなく、全体主義が産んだ悪「悪の陳腐さ」について理解しながらも死刑に値すると判断しました。
このようにどんなことに対しても「ゆるし」ができるわけではないでしょう。
それも人間だからです。
それでも「ゆるそう」という姿勢、考えることが大事ではないでしょうか?
ゆるしがお互いを自由にすることを忘れず、人間らしく考えてみましょう
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