生きているものは、生理的に生きていない状態を嫌っている
風は青海を渡るのか?/森博嗣
こんにちは!なべっちです。
SFなどでもAIが支配する世界など描かれたりしますが、それは良くないものとされることが多いように感じますがはたしてそうなのでしょうか?
また共存という状態を描いていることも多いですが本当にあるべき姿なのでしょうか?
人間が描いているので人間が中心ですが人間さえ必要ないかも知れないですし、人間の定義が変わっていくかも知れないということを考えてみたいと思います。
人間は自分以外の対象にも共感し喜べる故に
人間には共感力があります。これは悪い面だと、他者のことを批判したり、自分の未来や過去のことなど、考えても変えられないことに辛くなったりすることもあります。
逆に自分の知っている人が表彰された時にも同じように喜べたり、自分の子供が成績が上がったりしたときなども同じように喜べたりします。
それが物であっても自分が作ったものや関わったものが評価されたり役立ったときにも人は嬉しい気持ちになることができます。
今の人類と人工的に作られた生命体の区別がつかなくなる
いきなり明日AIに支配されます!となったら抵抗もあるでしょうが、さまざまな技術が少しずつ進歩し、一緒に人類も歩んでいきますが、いずれ人と区別がつかなくなったとしたら人と人工的に作られた生命体とどう分けていくのでしょうか?
人の気持ちがわかり、同じように悩み考え何かを作ることができるとしたら?
人間らしさとは何か?
機械的という表現には正確であることや状況や感情などによって左右されず同じような成果を出すことができるようなイメージがあります。
人間というイメージには未完成なもの、間違いがあることなども人間らしさを演出する要素でもあるといえるので、わざと間違えたり、ランダム性や不規則性も入れたりすると可愛らしく見えたりして人間味が増すように感じます。
Siriとかも人間味を出しているので万能ではないところも許容できたりするのかも知れません。
あえてスペックを落としたりすることに価値はあるのでしょうか?
人間以上の機能を持つ生命体が作れるようになったら正しい判断ができるAIがあればSFで描かれるように、人間はいらないという判断になるかも知れません。
特に支配をしようとか滅ぼそうと考えなかったとしても
SFでは積極的に人を滅ぼそうとするものがありますが、合理的に考えても別にそこにコストをかけなくてもいいと思います。
人より優れている存在としていてくれたらのちに従来の人間は淘汰か自然に数を減らしていったりするかも知れません。
今いる人間と全く違う見た目などにしていったら新しい生命体に保護されて生きることもありえるかも知れませんが、区別がつかないのであれば、今の社会でも能力の差によって格差はありますが、同じような状況かも知れませんが、それぐらい文明が発達していれば、労働や争いも起きない世の中になっているかもしれません。
今は人工的なものと区別がつきますが、技術が発展し同じようなものが作れるようになったとき区別する必要があるのか、何が区別なのか、生きるとは何かなど考えることになるかも知れませんね
まとめ
こんなことを考える未来を描いたSF作品が森博嗣さんのWシリーズです!
人工的な生命体であっても、人がつくったものであればそれを受け入れられるかも知れません。今の人がいなくなっても、その生命体が「人間」と言えるのであれば別に滅びたことにもならないです。
未来のことを考えるのは不安になるためでなく、面白いなとかどういう未来になるんだろうかなど生きるのが楽しくなるように考えるといいですね!
先日老化を克服するような研究も発表されましたが人の寿命も伸びていくでしょうし病気も医療で解決し「死」を克服していきます。
Wシリーズでは、人工細胞により衰えた臓器を交換することができ半永久的に生きることができるようになっています。交換や治療で回復できない場合は死がありますが、稀なケースです。
死ぬことがなくなれば、子供も作らなくても種の保存はできます。Wシリーズでは原因は不明ですが子供は産まれないような状況になっています。
種を保存するのが「つくる」になるかも知れませんし、生命体が自分でつくることが大事だという価値観なのであれば、それがクリアできればいいということになるかも知れません。
未来を描くことによって、生きるとは何かとか、価値とかそんなことを考えれます!
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