こんにちは!なべっちです!
座右の銘にする人も多い「無知の知」という言葉。これが誤解だったということについてお話ししたいと思います!
「無知の自覚」(不知の自覚)とは知らないことに甘んじない姿勢
実はソクラテスは無知の知とは一度も使っていなく、クザーヌスの「知ある無知」が日本語訳として「無知の知」となったようです
どちらでもいいじゃん!という印象を持つかもしれませんが、大いに違います!
「無知の知」では知らないことを知っているということで終わってしまう
探究心にもつながるマインドセットともいえる「無知の知」ですが、
「私は知らないことを知っている」ではそれを知ってしまうと終わってしまいます。
「無知の知の自覚」とは「私は知らないことを知っていると思っている」ということなのです。
つまり「私は知らないことを知っている」と思っているにすぎずそれすらも確かではないということ。
確実であることと不確実であることの違いがあります。
私は「無知である」これは前述の通りに知らないから知ろうとする姿勢のために使うことが多いと思いますが、
「無知」の状態の確実性を表現しているので、知らないことに甘んじている。知ることを諦めているとも言えます。
もちろんいくら知っても知らないことはたくさんあるから「無知である」と思っていた方が安全側ということかもしれませんが、相対主義のようにみんないいよねではなく「真理」を探求していくことが哲学であるとするのであれば、それすらも疑い続ける姿勢が肝要です。
無知と不知の違い
「無知」とは、知識が欠けることや愚かなこと
「不知」とは、知らないこと
ソクラテスが自覚しているのは「知らないこと=不知」についてです。
ですから「不知の自覚」が正しいニュアンスではないかと考えます。
知識とは「言葉で説明・表現可能」なもの
例えば「プロテインの知」であれば、プロテインとは何か?について言葉で説明できること
「無知の知」となると、知らないことを知っている。知らないことの知識って何?
内容がないので、知識といえないのです。
この矛盾から「無知の知」はないとも言えますし、例えメタ的な「知らないことを知っている」だとしても知の上位概念についてもプラトンは否定しています。
不知の自覚から探求が始まる
今回言葉の指摘からでしたが、結局どうしていけばいいのかということを考えるということ。
探求していく、考えていくことだと思います。
答えのようなものに辿り着いても、本当にそうなのか?と考え続けましょう!
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